降れる触れる









ひやり、と。

 ふと、唇に何かが触れた。
 憲実は寮へと戻る道を進む足を止め、空を見上げた。
(雨、…いや)

 肌を刺すような空気が鼻に抜けて、僅かな痛みさえもたらす、寒風吹く師走の入りだ。学内は、学生も教授達も何かとばたばたと忙しない。今日も、予定していた稽古が、顧問の急な他校での会議の為に中止となった。本来ならば顧問がおらずとも自主的に部活動に励んで構わないのだが、丁度、試験も間近に迫っている。学生の本分は学業にあり、と、代理伝達に訪れた石川教授がにんまりと部員一同の顔を見たものだから、ついでで課題を出されてはたまらないと、部員の一人が早々に解散を決めた。
 そうして、憲実は今こうしている。
 見上げた空は薄ねずみ色の雲が一面に敷き詰められていて、常に気流に乗って流れ続けるそれが、ぴたりと止まってしまっているように見えた。
 ところで、先ほどの感覚には、身に覚えがあったような気がするのだが、何だっただろう。あまりにも一瞬の出来事だったから、もう少し感覚が残っていたなら、思い出せそうな気もするのだが、どうも落ち着かないような、小さな風穴ひとつ開いたような、心もとない思いがした。
「何をやっとるんだ、こんな所で」
 後ろから聞き慣れた声がする。
 振り返ると、外套の前をぴっちりと合わせて、起こした襟に頬まで埋めるようにして不機嫌そうに立っている光伸がいた。
「…、どこかへ行って来たのか」
「いや、街へ行こうと思ったんだが、どうにも面倒臭くなったんで止めた」
 これだから冷えるのはいやなんだ、とぶちぶち言っている光伸の吐く息が白い。
「ところでお前、何をやってたんだ?」
 光伸は、さっき憲実がしていたように仰向いて空に目をやる。拍子に、ひゅう、と風が強く吹いて、光伸は顔をしかめ首を竦めた。
「寒い」
「そうだな」
「そうだなって…、いつまでもこんな所に突っ立っている馬鹿もおるまい」
 ――と、彼の黒い外套の前に、ちらりと白いものが掠めた。
「…お」
 光伸も気付いたようで、それを目で追った後、再び空を仰ぐ。
 雨のように地を打ち付ける音も無く、それはただただ静かに降りて来た。
「道理で矢鱈冷え込むと」
「ああ」

 雪だ。
 やはり先ほど感じたのは気のせいではなかったのだ。外気に勝る一瞬の冷たさが、肌の上に触れては消える。

 何かに似ている。

 つめたく、柔らかく触れるもの。
 何だっただろうか。

「…弟や妹は、毎年雪が降ると大喜びでな」
「だろうな、子供と言うのは大概雪遊びが好きだろう」
「それもあるんだが、食べるのに夢中で」
「食べる?この寒いのに氷菓子代わりか?」
「ああ。落ちて来る雪を、こう、口を開けて」
「旨いものでもあるまい」
「そうだな、ただの水だ」
「ほう、その口ぶりだと、さてはお前も食ってたのか」
 憲実の話に、光伸が楽しげに肩を揺らす。申し訳程度にちらついていた雪は、いつの間にか一定した拍子を持って降り始めていた。積もりはしないだろうが、明日の朝稽古はちと辛いかもしれない。
 また、風に揺れ流れた雪が唇に触れた。


 はた、はた、と、
 当たり前の事だが、目の前では自分と同じように光伸のその髪にも、頬にも、長い睫にも、唇にも雪が降りそそいでいる。
 あとからあとから、肌に落ちたそれは僅かな間を置いて消える。
 まるで、なにかに何度も何度も触れられ続けているかのようで。
「何だ?」
 憲実の視線に、しかめっつらをする光伸に手を伸ばした。両手で頬に触れ、溶けた雪の水滴を帯びた頬を拭うように包みこんでみる。そうすると、雪を自分の手の甲に受け、彼の頬に落ちるはずだったこれらを遮る事が出来た。
 寒さのためか、少し色の悪い光伸の唇を掌が掠める。
「………」
 
ああ。

 思い出した。
 何度も何度も触れては離れるつめたいものの正体。
 思い至ったと同時に、また、光伸の口元に雪が落ち、憲実は半ば無意識にそれを追い掛けるようにして、そこに唇を押しあてた。その薄い唇はやはりつめたい。

 最初に、雪が憲実の唇に触れて消えた時、何となく、けれどどうしようもなく寂しい心地がしたのは、きっとあのつめたさが似ていたからだ。
 しかしこれは雪のように熱に触れてしまえば消えてしまうわけではない。柔らかで確かな質感を持って、いつまでも存在している。僅かな隙間から零れる呼気はこんなにも温かで。
 自分の唇は光伸よりかは温かいようだから、このまま触れていたらやがて体温が移るかもしれない。いや、逆につめたさがこちらに移るのだろうか。
 そんな事を考えていると、光伸が、ひゅっと息を飲み、盛大に力を込めて憲実の身体を押し返した。当然、合わせていた唇は離れてしまう。そうなって、漸く憲実は、自分が金子に口付けていた事に気がついた。くちづけ、という名の行為よりも、ただ、確かめたくて触れてみた、と言った方が正しかったのかも知れない。…一体何を確かめたかったのかは不透明ではあるが、しかしどうしても。
「っ、貴様、場所を考えろと、前にも言わなかったか!?」
「いや、その…。………つい」
 自分でも結論の出ていない事を言葉に乗せても、恐らくは口下手な自分の事だ、言っている事が支離滅裂になるであろう事は目に見えていた。それでも、もしかしたら聡い光伸の事だから汲み取ってくれるのかもしれないが、自分が判らず相手が判るというのも妙な話だ。
「『つい』だと!?お前のそれは聞き飽きた馬鹿者!ったく、お前に付き合ってこんな所でいつまでも突っ立っているなんぞかなわん、俺は寮に帰る。お前は心配ないだろうが俺は繊細に出来ているからな、風邪でも引いたらお前が看病してくれるわけか?嫁として!まあそれは当然の責務だな!」
 一息で言い切り、光伸は肩で大きく息をする。
 踵を返してずんずんと歩き出した光伸に合わせて、自分も歩を進めると、「何故ついてくるんだ!」と怒鳴られた。同じ寮の同じ部屋に帰るのについて行くも行かんもないと思うのだが黙っておいた。

雪はそうしてやはり、時折自分の頬や額や唇に落ちる。
やっぱり似ているなと思ったら、もう一度触れてみたくなった。
前にも言われたが、光伸が言うには場所を考えろ、との事だ。

…部屋に帰れば構わないと言う事だろうか。
まるで光伸の言葉に対する揚げ足のような自分の思考に僅かに苦笑した憲実の息が白く消えた。







どうもうちののりざねさんはみつのぶさんの事がだいすきみたいなんだよね…。