惚 た る 恋 い  ..  ・           ・ .     .




「土田」
 窓を半分程開け、外の闇に向かって紫煙を飛ばしていた光伸が、振り向きもしないまま憲実に声を掛けた。
「何だ?」
「いいから、来てみろ」
 矢張りこちらに背を向けたまま手招きをしてみせた光伸の、その招き手とはまったく逆の方向にいた憲実は、笑みを零しながらうっそりと光伸の傍らに立つ。
「見ろ、あの辺」
 言われた憲実が、視線を指さされた先へと向けてみるが、月も見えないような曇り空の今日は、ただ部屋から漏れる明かりで間近の木立の葉がぼんやりと浮かんでいる以外には何も見えない。
 不思議に思って、光伸に声をかけようとした、その時だった。
「ほら」
「……、ああ」
 この距離では、目の錯覚かと思えるような小さな瞬き。しかし、一旦気がついてみれば、それは規則的に黄緑色の光を浮かべては闇に溶かしている。これを見失わないために、光伸はこちらを見ずにいたようだった。そうして今も、頬杖をつき気の無い風にしながらも、熱心に一点だけを見つめている。
「あれは水辺の生き物じゃあなかったか?」
「そんな時期か。外まで、見に行くか?」
「ほう、お前から夜歩きの誘いか?ちなみに、俺は夜に追うなら蝶の方が好きなんだが」
「……」
「冗談だ、折角『可愛い』嫁がいるのになあ?」
 光伸は、細めた目線だけをこちらに寄越して肩を揺らす。そうして、楽しそうに立ち上がり、「嫁」にもその前に発音を強調された箇所にも仏頂面を益々苦々しくした憲実の胸を、ぽんと叩いた。
「行くぞ、土田」



 まだ不安定な天気を引きずったままの、夏の迫る夜。ぼんやりと湿った空気が頬に纏わりついては過ぎて行く。
 学校を裏から抜けて、静かな軒並みを何という事もない会話をしながら通り過ぎれば、やがて小さな石橋が見えて来た。成程、蛍狩りにはいい頃合いだったようで、小川の付近の草薮には明かりと人陰が幾つか見え、同時に、子供のはしゃぐ声や歌が聞こえた。闇の中には先程見たものと同じ光が舞い上がっている。
 子供らのように近くまで行かなくても構わないと、少し離れた野っ原のような無造作な場所で立ち止まり、光伸が倉庫から持ち出して来たカンテラの明かりを落とした。
 そうしてしまえば、あとは虫の音と蛍の明滅だけの世界になった。
 時折、ちらりちらりと光が間近を横切ってゆく。

 暫く黙ったまま、二人並んで目の前に広がる光景を見つめた。非現実的なもののようにも思える無数のひかり。こえ、おと。
 夜露を帯びた足下の草を踏みしめるたびに、青い芳香が沸き立つ。
 道を下って歩いて行けば、喧噪と、電飾の光が明るく照らしている街なのに、この場所はまるで別の世界のようだ。

 ――どの位そうしていたのか、空中に仄白く流れていた煙草の匂いが途絶えて消えた頃、憲実は闇に慣れた目で隣を見た。光伸の顔はまだ真直ぐに、群れをなす光に向けられている。彼はもっと華やいだ、派手で賑やかな所が好きなのだろうと思っていたが、それだけでもない事はこの1年で知った。さすがに1年前よりは、わけの分らない部分も減って来たような気もする。それでも次に何をしでかすかはさっぱり見当がつかないから、あくまで、気がするだけなのだが。

 そんな事を考えていたら、ふと、光伸が口を開いた。
「あの光は、信号なんだってな」
「互いに気に入った雄と雌は光の波長を合わせる。いわゆる、ただの生殖行動だ。あれは羽化してからの寿命も短い。色恋に捧げる一生か、それ以外知るものがないなど、簡単なものだ」
「………」
 淡々と現実を述べる様は光伸らしい言い口だと思った。しかし、どうしてそんな風に、棘を含んだ、馬鹿にしたような声色なのだろう。寮を出てからこちら、虫の居所が悪いようには思えなかったのだが。
「俺達が見て、あれらのただの信号を綺麗だの何だのというのも、所詮こちらの勝手な独我論だろう、あいつらには、そもそもそんな概念など無い」
 言って、光伸は新しい煙草を取り出して銜える。
「どうした?」
「何が」
 燐寸を擦っていてこちらを見ない光伸に、構わず憲実は続けた。
「お前は、その、…あれを良いと思ったから、先刻部屋で俺を呼んだんじゃなかったのか?」
「………」
「あれは生きている」
「そんな事はわかっている」
「ならば、」
「だからだ」
「?」
 光伸は再度燐寸を擦る。湿気っているのか、2、3度繰り返しても火の着かないそれに、チッと舌打ちをして、銜えていた煙草を指先に取って弄んだ。その間も、憲実は言葉を探していたが、何をどう訊ねればいいのか見当がつかない。すぐそこの川辺では、また、数人の子供の歌が始まり、あちこちを移動する小さな影を、大人のものらしい声が窘めている。
 暗闇とは厄介なものだ。多少慣れたところで、到底顔色まで分かるものではない。ここに明かりさえあれば見えるはずなのにと、もどかしい。カンテラは光伸の足下に置いてあるが、自分は火を持っていない。
 だったらもっと蛍の群れの側に寄れば、見えるだろうか。
 それこそ手前勝手に、あの、自らの短い生を全うするための僅かな光にさえ、頼りたい思いがした。


「あー……すまん。さっきのは冗談だ、忘れてくれ」
 こちらに流れる沈黙を破ったのは、光伸のほうだった。
「ちょっと気になってな」
 光伸の言葉とほぼ同時に、きゃあ、と幼い歓声が上がった。見れば、誰かがいたずらに飛び込んだらしい草薮から、ぶわっ、と一群の光が空中に逃げ出した所だった。
 その様子がおさまるのを見届けながら、憲実は光伸の次の言葉を待つ。

「………。さっき学校にいたやつは、あのまま1人で絶えるのだろうか」
 ぽつりと呟かれたその言葉に、憲実は初めに彼が目にした学校にいた蛍の事を思い出した。そう言えば、光伸と共に外に出てから広い学校の敷地を出るまで、結局他に一匹も見つける事は出来なかったし、あの一匹そのものも目にする事は出来ず、何処に行ったのかもわからない。
「どれだけ光を放っても誰にも気付かれず、何も遂げずに、だ。たった十日やそこらの生命を終えるのか。……俺はその何倍も、」


「…いや。いっそそのほうが、案外足掻けるのかもな。なぁ?どうしたものかな、あと十日」

 光伸は彼の癖のような自嘲的な笑みを浮かべ、独り言にも取れる声色で憲実に問う。二人の間をまたひとつ光が通り過ぎた。


 憲実は、光伸の言葉の意味を量りかねたが、この蛍の群れが、あと数日もしたらその短い一生を終えて影も形もなくなってしまうのと同時に、傍らの光伸も消えてしまう事をぼんやりと脳裏に思い描いた。いつの間にかずっと横にいるこの人間が、もう、呼び声には答えないし、呼ぶ声も聞こえない。体温に触れる事も叶わず、どこを探しても、その姿は決して目に映らない。
 単純な想像力で思い浮かべたそれは、存外に強い印象を残し、憲実は眉を顰めた。
 まだ光伸は、何か自分に言いたい事があるんじゃないだろうか。それに、自分は光伸に、何か言わなければならない事があるんじゃないだろうか。自分達はずっと、何かが抜け落ちたままになっている。それでも無理に当て嵌めるよりも充分に居心地が良くて、つい失念してしまう「何か」。
 その答えが見える前に、光伸が目の前から居なくなってしまう。そうして、ひとりになった自分は、一体何を思うだろう。
 
 いや違う。

 一人になった自分は、そこで何を、思えるのだろう。

 響いていた川のせせらぎも、草の擦れる音も、虫の声も、まるで遮断されたように消えた。




「土田?」
 ぴくりとも動かない憲実の耳に、聞き慣れた声が届いて、憲実は弾かれたように顔を上げた。
 ――と、視界がふわりと滲んで、辺りを見回す。蛍の瞬きがやけに尾を引いて見える。
 向かいにいるはずの光伸の、その輪郭さえもぼやけて、憲実は一度まばたきをする。開けた、と思った視界がすぐにまた朧げに揺れた。
「…土田?」
「何だ?」
「目に塵でも入ったのか?さすがにこんなに暗くては塵など見えんぞ」
 慌てた様子の声の次に、光伸に両手で顔を包み込まれ、指先で軽く皮膚を拭ぐわれる。そうされて、憲実は揺れた視界の正体を知った。
「どうした? 何、泣いてる?」
 理由など、自分でもわからない。そもそも、泣くと言うのはこういう事だっただろうか。最後に泣いた事など、あまりに幼い記憶でもう残ってもいない。
「おい、眠いとか抜かすんじゃないだろうな、何とか言え、大体にしてその面構え、怖いぞ」
 いつもより幾分強張ったような口調ではあったが、半分茶化すようなその言葉に、ふと、思い至った。光伸はよく最後にこう言う。
「………談だと」
「ん?」
「冗談だと、言え。さっきも言っただろう、お前は」
「はぁ?何だそれは。俺に命令か?意味がわからん」
「意味が解らんのはこっちの方だ、それにお前だって以前、わからんと言っていた」
 一年前の、この季節に近い朝、光伸だってそうだった筈だ、だから、訳もわからずそういう事になる時もあるものなのだろう。だったら別に構いはしないと納得させる事にする。そうだ、光伸だってそうだった。同じだ。
 咎められてもいないのに、まるで自分が今迄したこともない子供の言い訳をしているように思えて、憲実は眉間の皺を深くして唇を結んだ。傍らで光伸は口元に手を添えて、何やら唸っている。
「そ、それはそうなんだが…、いや、そもそもあれはだな――…」
「あれは?」
 光伸の理由が聞ければ、もしかしたら自分の理由も解るのかもしれないと思い聞き返せば、光伸はまたもごもごと口を噤んだ。そうして、我にかえったように憲実の方を睨み上げる。
「いつの話だ!話の鉾先をいつの間にかこっちに向けるな!土田の癖に!…ったく、そもそも、何の話だった、何の。…ああ、思い出した、言えばいいんだろう言えば。『冗談だ。』これでいいか?」
 早口で捲し立て、光伸はそっぽを向いてしゃがみ込んでしまう。
 地べたに置いていたカンテラに火を入れようとでもしているのか、金属の擦れる音がした。その間も、憲実が沈黙していると、やがて、背中をこちらに向けたままの光伸から、再びゆっくりと、小さな声で言葉が紡がれた。
「土田、冗談だ」
 いつもは何か煙に巻かれたようで憲実の眉間を顰める原因にしかならない光伸のその言葉。
 今のそれは、何故かやけに安心する響きを伴って、憲実の裡に柔らかく落ちた。

「…例え冗談でも言っていい事と悪い事がある」
「はぁ!? 冗談と言えと言ったのはお前だろう!大体だな、なにが――…」
 振り返った光伸の返答はもっともだと思ったが、いつものように怒鳴る声にも胸が凪いだような気がした。
「…ああもう、折角わざわざ蛍狩りに出向いて来たと言うに、お前のべそかき面ですっかり何が何やら、だ。明日は学校中に広めて小馬鹿にしてやるから楽しみにしていろ」
 まだ、光伸はぶつくさとぼやいている。
「俺はべそをかいた覚えはない」
「じゃあ何だ」
「知らん」
「あのなあ…」
 呆れた調子の声を耳に捕えながら、辺りをゆうらりと揺蕩う蛍に、ふと、止り木替わりに手を浮かせてみる。しかし光はすいと憲実の手を横切って別の草の先にその身を落とした。
「振られたな」
 行き場を無くした憲実の手を見ながら、光伸がくつくつと笑う。さも可笑しそうにしながら、光伸も、しゃがんだまま宙に手を突き出した。ひとつ、ふたつと浮遊する光は、やはりその手を横切って、また更に高く昇るように舞う。
「俺もご同類か、そう上手くいかんな、これだけいるのに」
 言葉とは裏腹に、別に残念がってもいなさそうに、上げた手をぶらぶらと振っている光伸の、その手を上から掴んだ。
「わ!?」
「何だ?立たないのか?」
「いや、立つ、立つが!」
 立ち上がると、直ぐさま抜き取るように後ろへ引かれた光伸の手に、反射的に力を入れてそれを阻んだ。
「………」
「………」
「俺はこの通り立ち上がったんだが」
「ああ」
「手を貸すなんぞなかなか紳士な振る舞いだ。そこは感謝しよう。だが俺は淑女ではない」
「ああ」
「………もう離してくれないか?」
「どうしてだ?」
「どうしてってお前…、あー…。か、カンテラに火が入れられんしだな」
「煙草も吸えんし」
「ああ!分かったぞ、嫌がらせだな?!この馬鹿!暑苦しい、離せ!!」
「金子、先刻から声が大きいと思うんだが」
 どうせこの暗さでは、少し離れた所からはせいぜい人陰があるくらいにしか見えないとは思うが、そう言ってやると、光伸ははっとして声を潜めた。今度は無言で、隙あらばと言った感じに時折ぐいと腕を引く。それが成功しないと分かると、溜息を吐いて肩を落とした。
「…勘弁してくれ」
 嫌がらせのつもりはまるで無かったのだが、さすがにここまで言われると、自分がただ悪戯にからかっているだけのようで、やりすぎたかと思う。
 しかし、次に返って来たのは、俯いていたと思いきや、突然息がかかる程間近に寄ってにやりと笑った光伸の顔と、力を込めてくる手のひら。
「仕方ない、そんなにこのままがいいなら寮までお前の手を引いて帰るか、可愛いリーベよ」
「嫌がらせか」
「そうだとも」
 一度ふんぞり返った光伸は、開いた片手で火の無いカンテラの取っ手に指を引っ掛けると、言葉の通りに憲実の手を引いて道に戻り、先に立って歩き出した。
 さっさと歩く光伸の靴音と、憲実の下駄の歯が石をカラコロと踏む音とが、時折重なる。
「…俺は、あれはちゃんと成し遂げられると思う」
「ん?」
「学校の庭にいた蛍だ」
「……」
「自然界の事に断言など出来ん。綺麗事だが、そうだといいと思う」
「……お前が言うとそう思えるから不思議だよ、つくづく腹の立つ男だな貴様」
「お前ほどじゃない」
「何だ、腹が立ってたのか?俺に?」
 くすくすと背を揺らして憲実に話す声が止まり、光伸は歩きながら、だんだんと遠くなる蛍の群れに再び目を向けた。
「土田」
「何だ?」
「きれいなものだ。とても」
「ああ」
 また一対、また一対、と、彼らは懸命に熱を放って、波長を合わせていくのだろう。

「…おい」
「どうかしたか?」

「…ほんとうに寮までこのまま帰る気か?冗談にするなら今のうちだが」
 恨めしそうに振り返って言った光伸に、憲実はその手をもう一度握り返して答えた。









土金未満です。<まだ!