a  l e t t e r
てがみ












 作家、金子光伸のもとに、数ヶ月に一度担当編集人の木下真弓から差し入れと称して封書が持ち込まれる事がある。

 それは、光伸が執筆に煮詰まったり、昔からの癖で遊びに出てしまおうかと画策している時であったりする際に絶妙の間合いで届けられ、この編集人が全て計算ずくでやっているのではないかと思う程だった。
 我ながら単純と思わないでもないが、やはりものを書いて世に出している身分としては生の反応は気になるもので、封筒の中身--編集部宛てに届く、所謂フアンレタァと言う奴だ--をひとつひとつ開く高揚と言ったらない。数こそ多いわけではないが、名前に見覚えのある熱心な読者もいた。
 多少辛辣な言葉が添えられていたとして、光伸は誰よりも無遠慮に辛辣な言葉を吐く編集に長年担当されているため、寧ろ何もかもが激励にすら思える。
 そうだ、自分も水川「抱月」に手紙のひとつも出してみようか。繁、には近況を報告した事はあったが、作家水川抱月に文をしたためてみた事はまだない。あの戦争が終わって数年後、彼の新作の載った雑誌は、木下に発売前にも貰ったし、発売日には勢い余って2冊程購入してしまった程だ。繁の勝ち誇ったニヤついた顔が目に浮かぶが、こればかりは習性でもあるから仕方がない。自分があの作家のフアンである事は今までもこれからも生涯変わらないのだから。
 水川抱月への手紙。当人にとっては嫌がらせ以外のなにものでもないが、ひとつ、熱の籠もった文章でも書き連ねてみるとしようか、書き出しは、ミステリアスな魅力を持つ貴方へ、でどうだろう。
 光伸はクスクスと笑って文箱を取り出そうと引き出しを開ける。すると傍らに置いてある藤色の包みが目に留まった。
 僅かに躊躇した後に、光伸は目を細め、包みの結び目を解く。中から現れた、端の方が変色したり、宛名の墨がにじんでしまっている数枚の葉書を取り出し、机の上に札遊びのように並べた。
 裏に返すと、何の装飾もない文章が、まるで同じカアドのように連なっている。
 元気か
 変わりはないか
 大抵はその二言だけで締められていて、よくもまあ自分はこの愛想のかけらもない葉書に相当浮き足立って返事をしていたものだと思う。
 この葉書が思い起こさせるのは、決して良い思い出だけではなかった。
 状況が悪化するに増した厳しい検閲に、真の所は何もわからなかったし、途絶えもすれば不安にもなる。互いの立場もあり、情勢を睨みながら近況だけを報告しあうなど呑気な事も言ってはいれなかった。
 しかし、この素っ気ない葉書に何度救われたか知れない。あれもいちいち絶妙な間合いで連絡を寄越して来たものだと、差出人の名前を指先でなぞった。

「明かりも点けずにどうした」
 急に背中に掛けられた声に、光伸は驚いて振り返った。気がつけば西日ももうすぐに消えようとしていて、一筋だけ残った光が真っ直ぐに憲実を射ている。
「締切は大丈夫なのか?」
「いや、今日は俺の決めた安息日というやつだ、木下の差し入れは、これで少しは頭を切り替えろという意味だからな」
「つまり、出来てはいないと」
「有り体に言えばそういう事かな」
 ゆるゆると夜へと向かう仄闇の中で光伸が笑う。
「あんまり筆が進まんから、いっそ手紙でも書いて慣らそうかと思っていた」
「手紙?」
「ああ、水川抱月にとびきりの熱いフアンレタアをな。そうだ、お前も要に書くか?なんなら同封するが。…しかし、こんな調子じゃメートヒェンも返事のしようもないから覚えておくように」
 言って、ひらひらと葉書を摘まみ上げて見せた。
 憲実は片眉を上げて光伸の指先を見下ろす。文机の上に並べられ、白く浮かび上がるそれらが、自分が光伸に宛てて出した葉書だと気付くと、困ったように右手で頭を掻いた。
「だから文学的素養をもっと養えと言ったんだ」
「…すまん」
「いい、いい。俺は多くを望まない主義だ、控えめな性格だからな」
「そうではなく」
「は?」
 気が付けば、憲実は光伸の傍らに座して、じっと文机を、いや、文机の上の葉書を見つめていた。


「俺は、…持っていない」
「? 何を」
 言い淀む憲実の先を促す。放っておけばどこまでも黙りこくる憲実の口を割るのは何年経っても難儀な事だが、これはそちらから言い出した事だ。話す気があるから切り出した事なのだろう。
「その、手紙を」
「手紙?」
「…俺は、あの頃お前から貰った手紙を、今一通も持っていない」
「…………」
 それは、仕方のない事だと光伸は思う。自分と違って憲実は一所に落ち着いていたわけではなし、あの混乱の中で、紛失なり消失なりさせてしまう機会はごまんとあった筈だ。もしかしたら、憲実の手許に届いてすらいないものだってあったのではないだろうか。
「…いや、別にたいした事は書いていなかったと思うが」
「内容は今でも覚えている」
「は?」
「よく読んだからな」
 そう言って憲実に滅多に見せない笑みなど見せられると、どうも落ち着かない。自分達は幾つになったと思っているんだ、と自問しながら、光伸は赤くなった顔を見せないようにそっぽを向いた。
「お、お前にそんな記憶力があるとは思えんな」
「言っただろう、よく読んだ、と」
 それは、多少なりとも光伸の手紙が憲実の慰み…、せめて暇つぶしに位はなったと自惚れてもいいと言う事だろうか。
「…あの時に海に…と、思うんだが、すまん」
 そう言って、憲実は、無意識にだろうか、今はない左腕の付け根をさすった。光伸は黙って、その様子を見つめている。日は完全に落ちて、部屋の中は闇に包まれたが、明かりをつけることさえ忘れていた。
 そうか。一緒に連れて行ってくれたのか。
 胸が締め付けられるように熱い。ともすれば震えてしまいそうな声色を押し隠し、明るく名前を呼んだ。
「土田」
「ん?」
「それは、…あれだ、海の女神が俺の直筆サイン欲しさに手紙だけ持って行ったんだろうよ、何せ未来の大作家先生だからな。そしてついでに沈んで来たお前みたいな木偶の坊はあちらさんから突っ返されたわけだ」
 光伸は、笑いながら憲実の額を葉書でぴしゃりと打った。
「お前一体、どこで消印押されて此処に送られて来たんだ? 配達人も随分道に迷ったようだが」
「さあな」
 実の所光伸は、どうやって憲実が戻って来たのか、その答えを聞いたわけではなかった。聞けばきっと憲実は話してくれると思うが、それは結果的に憲実に辛い思いをさせる事になる。数年経って再会した時は断固として聞き出そうと思っていた事だったが、もう、その辺りの事は光伸にとって重要な事ではなくなっていた。学生の頃のように、憲実と四六時中顔をあわせる生活、それが戻って来たという事実だけで、もう充分だと思ってしまっている。木下や火浦なんかは詳しい事を聞きたがっていたから、憲実が話したくなったら勝手に話すだろう。
「しかし、お前は本当に、色々と…、持っているんだな」
「色々?」
「葉書もそうだが、冩眞も、俺がやった匂い袋もまだ」
「…いや、べつに後生大事に仕舞っておいたわけじゃ…、ないが、…いや、なくもないが、どうでもいいだろうそんな事は」
「不公平だとは思わんか」
「………………は?」
 憲実から出た言葉に耳を疑って、光伸はあんぐりと口を開けた。不平不満を言うような奴ではないのだが、と言うか、意味がわからない。
「ずるい」
「は? え?」
「水川に手紙を書くのだろう」
「あ、ああ。まあ、そのうちな」
「………………」
 無言でずい、と眼前に突き付けられる右手。光伸はその手と憲実の顔とを何度も往復して、眉を寄せ首をかしげた。
「……なんだこの手は」
 お手、とでも言うのだろうか、どこぞの作家のように茶請けを摘むたちでもないので渡す飴玉の一つもないのだが。ええと、つまり、なんだ。
「…手紙を寄越せと?」
 恐る恐る聞いてみると、憲実は無表情のままこっくりと頷いた。
「何で一緒に住んでいる奴にいちいち手紙を出すんだ」
「お前は俺が出した葉書を持っているだろう」
「これは昔貰ったやつだろう!それに!俺は返事を書いた!この簡潔極まりない文章に対して流れるような時候の挨拶も添えてやっただろう!!」
「しかし、もう無いからな」
「それはそうかも知れんが、どんな理屈だ!?」
 思い出は美化されるものだと言うが、かつて己が憧れを抱いた土田憲実と言う男は、こんな子供じみた屁理屈を言うやつだっただろうかと、光伸は思考を巡らせる。そりゃあ、時には意地の悪い顔をされた事もあったような気がしないでもない、そして、その度に自分はと言えば…、
 そこで光伸は一旦考えるのをやめ、憲実をちらりと見る。一方の憲実はと言えば、変わらぬ無表情で、と言うか何を怒られているのかもわかっていないような顔で、ただじっと光伸を見つめていた。光伸は益々頭を抱える。
 ……結局、こいつに上手く丸め込まれてしまうのだ。
「わかったよ、書く、書くから。但し、今は駄目だ、締め切りがあるからな」
「そうか」
 どっちが不公平だかわかったものじゃない。一緒に暮していて何を書けと言うんだこの馬鹿が、のりざねくん、おげんきですか、と子供に宛てるような文面にしてやろうか。胸の中でさんざ悪態をついてやる間も、どことなく憲実が上機嫌な気がして、まあ、いいかと思ってしまう自分も如何なものかと自問しながら、光伸はようやっと部屋の明かりをつけた。
「だったらお前もたまには俺の小説に感想でも書けよ」
「…わかった」
「おや。まあ期待せずに待つとしよう」





 ある日、編集部に届いた金子光伸宛の手紙の中に、やたら素っ気のない文面の葉書を見付け、ふと差出人を見て、あの人たちは何をやっているんだろうと編集人が呆れた溜息を零すのは、もう少し先の話だ。













誕生日とは関係ない話ですけど土田誕生日きねん。
ラブオチですおね…?