無光世界









 腕に鋭い熱が走ったのを感じたのと、身体が水面に叩き付けられたのを感じたのは、殆ど同時だった。視界は歪み、思わず悲鳴を上げた自分の口からゴボゴボと空気が漏れる音だけが耳に届いて、そうしてやがて何も聞こえなくなり、視界と意識は闇に覆われた。
 軍人になると決めた時から覚悟していた事ではあった。
 だが、自らの命を戦いで落とす事を栄誉だと感じた事はない。海上で絶えた兵が海に水葬されるのを見送る度に、何も出来なかった己を悔いた。出来れば、敵も、味方も、誰もそんな目には遭って欲しくないと、そう願って此処に立っていた筈だったのだ。

 広尾は無事だろうか。
 せめて自分の目の前の人間だけでも守りたいと思って手を伸ばし、甲板に投げ付けるように引き上げた後、彼が自分の名前を叫んだような気がしたが、爆音に攫われてよくは聞こえなかった。彼らが無事に国に帰れたならば、その時には居ない自分の事を誰かに伝えてくれればいいと思った。待つ事のないようにと、探さなくてすむようにと。田舎の家族は気丈な人間ばかりだから、きっといつまでも落ち込んでいる事もないだろう。

 それに、彼にも。
 学生時代から、何故か後ろめたい思いでずっと言えずに胸に仕舞って来た事を、彼、…光伸にも打ち明ける事が出来た。そうして光伸は言ってくれた、この戦争が終わったら、自分の歩みたい道を歩んでくれる事を。
 第二倉庫で目にした原稿用紙に書かれた文章は、勉強を教わる時に光伸のノォトに書いてあった、几帳面に整った文字とは違って、流れるように運ばれ、一画が略されたり、前後の文字が繋がっていたり、とにかく先を書きたくて書きたくて急いでいるように、生き生きと憲実の目に映った。文学的な素養のない憲実には、少しだけ読んだ内容そのものよりも、文字に映る光伸の感情の方が焼き付いた。光伸と近しく付き合うようになって、彼の思いもよらない行動にいつも驚かされていたのだから、きっとあの文章にも、幾度もの驚きを味わわされるのだろう。それをゆっくりと読める日が来るのを待ち遠しく思った。
 本当に、最後に声を聞いた時、光伸がそう約束してくれて良かった。
 あの時、自分にしてはよく喋ったと思うし、大切な事も言えたと思う。学生の頃から答えのないままぶら下げていた思いは、何時の間にか当たり前の想いになっていることも、もう自分は知っていた。
 現に、今もこうして彼を思い、ひどく穏やかな気持ちでいる。
 いつも、いつも助けられた。
 案外、守っているつもりで、ずっと支えられ守られていたのは自分の方だったんだろう。
 その度に彼はきっといつも無茶をして、無理をして。そうして笑って見せた。だからもう、自分のために無理をしないで欲しい。自由に、生きて欲しかった。時流がそうはさせてくれなかったが、若いあの頃、騒ぎの中心にいつもいた、清々とした顔の彼のように。
 そんな光伸の顔を、もう自分が見れないのは残念な事ではあるが。


「………っ!」


 憲実は手放しかけていた意識を引き戻した。
 そうだ、自分はあの顔が見たいと思っていた、誰よりも自分が一番見ていたいのだ。自由に生きる彼を、いっとう近くで。ここで果ててしまったら、自分の願いは、想いは一生彼に届かない。
 英国に渡った水川繁と日向要の間に、生涯消えないあの男がいるように、自分の存在が光伸の中で永遠になる事を願っている訳じゃない。そんな風にして、彼の中に残ったとしても、死んだ自分には、何も残らないのだ。ただ残されたほうに深く刻み込まれるばかりで、自分にはなにもなくなってしまう。

 記憶も、約束も、想いも、存在も、自分の中の彼も、全て。

 電話越しに一番伝えたかった言葉は、彼を自分の想いで縛りたくないと飲み込んだ。でももし生きて帰ったならば伝えようと、密かに誓った。

 光伸が小説を書く事を約束してくれた。
 そして、自分は、それを読む事を約束したのだ。自分には果たさねばならない約束がある。
 だから自分はそれに縋って、掴んで。離さないように握りしめて。想いに縛られる事をよすがとしたいのは、自分の方がずっと。

 「もし」では駄目なのだ。「必ず」。


 四肢の感覚はとうに無いに等しかった。
 無理矢理目をこじ開ける。何もない世界、暗い水面に、僅かな光を見たような気がした。









確か雑誌掲載SSで土日で海に投げ出された時の土田独白があったと思ったんですけど、それは私持ってなくて読んでないのですけども。最近ここらへんの事(っていうかガ島命令を下された辺りの土金の時の土田さんの心理状態)を考えていたので書いた。
土田にとって金子がどういう存在なのか、土田が追い詰められないと言わないし考えない(自分の中で答え出しちゃったらそれで満足しちゃうんじゃないかなあと思うんですけどあの人)んじゃないかなーと思って。

ってか土田視点が読みたいです。