寝台まで5歩







 その日憲実は、早朝も夕食の後も後輩達に稽古をつけてくれと頼まれていた。そうして夜の稽古では指導につい熱が入ってしまい、時間が経つのを忘れて稽古に打ち込んでいて、気がつけば、外から見た寮の窓の明かりは殆ど灯ってはいなかった。
 汗を水で流した後に自室の扉をそっと開けると、僅かに光が漏れ出て来て、宵っぱりな同室の人間が起きているのかと思ったが、その人、光伸は憲実の視線の先にある机に突っ伏し、背中を丸めていた。
「…金子?」
 返事はない。机の明かりの下で、光伸の肩が規則的に上下する。もっと近寄って覗き込めば、彼の頭を乗せた腕の下には本が開かれたままになっていた。
 参考書だろうか、と、憲実は思ったが、句読点と連なる文字量の多さに、それが何らかの文学書であると言う事を悟った。自分と違って文学的素養云々と言えるだけの事はあって、さっと目を走らせてみても何が書いてあるのか、憲実にはいまひとつ読み取れなかった。
「金子、風邪を引くぞ、寝台で寝ろ」
「………」
 肩を叩いて揺すってみても、光伸は起きる気配すら見せない。
 彼の眠りはどちらかというと浅い方だと思っていたので、憲実は珍しく熟睡しているのを自分の所為で起こす必要は無いと思い直した。その場を振り返って光伸の寝台を見る。
 せいぜい5歩と言ったところだろうか。
 憲実はあまり振動を与えないように光伸が身体を預けたままの椅子を引き、膝の裏と背中に腕を回した。
 遊び疲れて畳の上で眠りに落ちた弟や妹を布団に運んだ事を思い出す。光伸をこうして抱え上げるのは初めてではなかったが、眠った状態の長身の青年を抱えるのは些か難儀を被った。
「…っ」
 持ち上げる瞬間、光伸の息が漏れて、起こしてしまったかと思ったが、まだ覚醒はしてはいないようで、がくりと光伸の片腕が垂れ下がった。
「……」
 息をつめて抱え上げ、ついでに机の明かりも消してしまおうと、背中を腕で支えたまま指先を伸ばす。しかしやはり子供を抱えるのとは違い、光伸の身体が重力に従って滑り落ちてしまいそうになってしまい、憲実は慌ててその身体を抱え直した。
「……?」
「起こしたか」
 薄目を開けた光伸が、焦点の定まらない目で憲実の方を見る。
「寝台で寝ろ、風邪を引く」
「…ああ」
「?」
 こういう状況だと、光伸の事なので喚かれでもするかと一瞬憲実は思った。しかし、光伸はぼんやりと視線を彷徨わせたかと思うと、憲実の首へしっかりとしがみつくようにするりと腕を回した。そうして、表情にこそ出ないが、僅かに面喰らった憲実の首元で、まるで子供のような素直な口ぶりで呟いた。
「…ん、すまん、時枝」


 ふっと明かりが落とされたように、憲実の裡が冷えたような気がした。
光伸は寝惚けているのだろう、これも珍しい事だ。呟かれた名前が誰のものなのかは知らないが、こうして光伸を運んだ事がある者がいると言う事だ。それは父や母ではない、誰か。
 しかしその誰かが、光伸に信頼を寄せられていたという事だけは伺い知れた。
 
 1年と少しの間、同級の光伸の様子を見るともなしに見ていて、ずっとどこか無理をしているようには思っていた。自分に絡むような気配に何となく気付いてからは、言いたい事があるならいずれ言ってくるだろうとも。それはいつかの剣道場で、予想を越える形で訪れた事は確かなのだけれど、(本人にこれを言うと怒るが)特別な好意を持たれると言う事は、自分が少なからず信頼されている事だと思うし、手段はどうあれ、自分があの時に捕われていた、要への思いとはまた別の、言い知れない淀んだものから助けられた身としては、光伸に何かあれば手助けしてやりたいとも思う。
 しかし、そういう彼の信頼に足る特別な対象が自分1人ではないかもしれないと言う事に、憲実はひどく焦燥を覚えた。次に、焦燥を覚えた事に驚いた。

 寝台まで5歩。足はまるでその場に貼り付いたようにまだ1歩も進んでいない。

 腕の中には光伸の体温がある。
 髪が耳もとをくすぐる。
 時折、憲実の肌に一番近い場所にある唇から寝息がかかる。

 安心しきったように力の抜けた光伸の身体を支える掌に、じわりと汗が滲んだのを感じた。


 静寂のあと、机の明かりが僅かに瞬いた事を切っ掛けに、憲実は踵を返した。寝台まで、3歩進む。わざと乱暴に揺れるように歩いても光伸は目を覚まさない。もう2歩進んで、身体を布団の上に降ろす。体温が離れて冷たい布の上に置かれた事で、光伸は少し震えて身体を丸めた。
「金子」
「……」
 眠っている人間を相手に何を、と頭の隅で思ったが、憲実は構わず、膝で彼の寝台に乗り上げると、薄く開いた光伸の唇に自分のそれを近付けた。確かめるようにそっと触れた後、舌先で歯列をなぞり更に口腔に差し入れようとしても、眠ったままの光伸はそこから先の侵入を許さない。眠っているのだから開かなくて当然な筈なのに、急に、光伸に拒まれたような気がした。
「…金子」
 もう一度、光伸の唇の上で言葉を彷徨わせたまま、シャツの裾をズボンから引きずり出す。汗ばんだ掌は腰をすべり、胸へ。
「ん」 
 夢と現の境目で、どちらともつかない感覚に光伸は眉を顰めて逃げを打とうとした。それを悟った憲実は、指先に捉えた突起を僅かに力を込めて捻る。
「っあ、」
 反射的に上がった声とともに開いた唇を塞ぎ、わけもわからず引かれ縮こまる舌を掬い上げた。
「!? う、…ん、ンッ」
 その間も、片腕は性急な仕種でシャツを捲り上げる。机からの明かりが、壁に大きく影を映した。
 ドン、と背中を叩かれ、一瞬呼吸の隙を与えるように顔を離した後、光伸の顔が背けられなかったのをいい事に、憲実はもう一度唇を落とした。今度は光伸の舌が答えて来る。吐息とともに髪をぎゅうと引っ張られた。
「は、ァ、…? ……は?」
 口付けの最中段々と意識が覚醒した光伸が、憲実と部屋と捲り上げられたシャツとを順番に見て、また憲実の顔へと戻って来る。
「金子」
「驚いたな、お前こういう趣味があったのか」
「……金子」
「?」
 それきり黙ってしまった憲実に、光伸は視線を外さないまま、手を憲実のズボンへと滑らせた。不躾なまで直接的に、布越しに憲実自身に触れて来る。
「…とりあえず、最後までやるか?」
 
 言って、光伸はニッと笑った。



 熱を吐き出すように、互いを握り込み擦り合わせて達した後、再び煽るような仕種で自身を撫で上げて来る光伸の腕を憲実は制した。
「…どうした?」
「いや…」
 呼吸を唇で吸い取っても、耳に届く声がいつもより甘やかなものであっても、どこか空虚なものを感じてしまい、憲実はもう一度、光伸の顔を見た。
 僅かな明かりに映し出されているその顔は上気し染まっていて、目があったことが気恥ずかしいのか、光伸は汗で額に張りついた髪の毛を乱暴に払って、そのままパタリと真横に腕を倒した。
「気乗りせんのなら別に構わんぞ、それに、俺は些か眠い」
 横に向けた光伸の顔から、瞳がゆっくりと閉じられてしまいそうになって、憲実は、小さく、あ、と声を上げた。
「…なんだ、どっちだ」
 閉じられたと思った瞳が、じろりと睨み上げてくる。
「お前、ちょっと今日はおかしいんじゃないのか、そもそも夜這いなぞ、俺の専売特許だろう」
 いつからそういうことになったのかは解らないが、光伸は眉間を寄せたまま起き上がり、憲実の額に手を乗せた。
「鬼の霍乱、熱でも出たのか?」
「そうじゃない、ただ」
「ただ?」
「………」
 解らない。光伸にとって彼を理解し、彼もまた信頼する人間がいるのは、本人はどう思うか知らないが好ましい事だと思う。自分や、世間一般に置き換えてみてもそうだ。ただ。
「まだるっこしい、いいからもう一発抜け、すっきりして寝ろ」
「金子!」
 言葉を言い切るか言い切らないかのうちに、憲実の足の間に頭を潜らせて来た光伸に、萎えたままの自身を取られて、いきなりな刺激を与えられた。急所を取られたうえに的確に要所を突いて来る光伸の舌先で、簡単に高められてしまう。やられっぱなしでもいられないので、憲実は指先で光伸の背中をなぞり、双丘の奥へ潜り込ませた。寝台の上で背中が跳ねる。
「こ、んなものか…?」
 熱を持った憲実自身から唇を離し、光伸は座ったままの憲実を跨ぐと、自ら迎えるように後ろに手を添えた。明かりに直接背を向けた事で、逆光となってその顔は殆ど見えなくなってしまった。
「金子、やはり」
「ん、つ、…だ」
「……!」
 瞬間、憲実の裡で暗くくすぶっていたものに、ポッと火が灯ったような気がした。
「…金子」
 光伸は浅く息をしながら、ゆっくりと憲実を受け入れてゆく。
「ァ、土田、つち…」

「金子」
「っ、煩い、何だ土田」


 ああ、そうか。
 今まで当たり前のように1日になんども名を連呼されていたのに、今日は。

 光伸が紡いだ名を聞いて、寝台まで5歩の間に、一度でも無意識に自分の名を呼んでくれはしないだろうかと、そんな事を思って、けれどそれは叶う事は無く。目が合っても熱を重ねてもそれはどこか他人に向けられたように思えて、本当に何故かそう思えてしまい。
 これほど身勝手な事があるだろうか。それは、自分が光伸に何度か言った言葉が答えになる事だったのに。


「…すまん」
「? 別…に、痛くない」

 光伸からの返事に、憲実は瞳を丸くした後、苦く笑って、その腕を取って自分の肩に回させた。








--寝台まで0歩--



 驚いた。
 天地がひっくり返ったのかと思う程に光伸は本当に驚いていた。

 何か夢を見ていたような気がしていた。
もうあまり思い出したくない病院の臭い。そこからなるべく逃げ出そうと、庭でいつも本を読んでいた。投与された薬の所為でいつの間にか眠ってしまった自分を抱え上げて、病室の寝台へと運んでくれていたのは、よく見舞ってくれた父の秘書が、まだ今の自分達くらいの学生の頃だったと思う。
 歩ける、と言おうとしても眠くて力が入らない。軽々と抱え上げられてしまうのが男子としていい気持ちではなかったが、 病室に運ばれる間の揺れだけは妙に心地よかった。そういえば、奴に礼など言った事はあったか。なかったか。いいか。奴も仕事だ。

 そうしてふと気がついてみれば、寝台の上で憲実が乗っかってきているし、熱烈な接吻はされるし、シャツは剥かれているし、それだけでも驚いて何か叫びだしそうな気持ちになったのに、何よりも憲実が。
 表現に語弊があるかもしれないが、憲実がまるで泣き出しそうな顔をしていたから。
 これは自分が驚いている場合ではないと思い、取りあえず冷静に驚いた要点を受け入れてみる事にした。あれこれされたからと言って、以前のような二の舞いは演じないのだ。


 あまりにも憲実がだんまりを決め込むので、すっきりすれば気分も変わるだろうと思って女役をかって出てやれば、現金な事に機嫌を戻したようだった。全く、意外とこの男は下半身と脳が直結しているのではないか。
 ともかく、わけもわからずやられるよりはずっとましだ。
 自分といて、何らかの手段でこいつの気分が変わるのなら、それでいいのだし、自分も気持ち良いにこしたことはないし、まあ楽しいのだし。


 そう言えば、自分は寝台までどうやって移動してきたのだったか。

 最後にふと浮かんだ疑問符は、寝台の軋む音と共にだんだんと意識を攫われて消えた。






最終的には微妙にかみあってない人たち。だって土金なので。
土田から金子へちょぴっと独占欲めいたものが芽生えてきたらいい。と、思います…。